目次
1. 前提:これは消耗戦だと分かっている
最初に前提をはっきりさせておく。
これから書く話は、効率的でも合理的でもない。
縦の戦いは消耗戦だということを、私は十分に理解している。
ここで言う縦の戦いとは、能力を序列化し、同じ物差しの中で上下を競う戦いだ。
勝てば評価され、負ければ切り捨てられる。
努力や事情よりも、結果だけが残る。
この構造が残酷で、長期的に見れば不利になりやすいことも分かっている。
年齢、運、環境、初期配置。
個人ではどうにもならない要素が、結果に強く影響する。
消耗して、途中で脱落する人のほうが多い。
そして社会には、この縦の戦いから距離を取るための、別の選択肢も用意されている。
いわゆる横の戦いだ。
役割をずらす。
土俵を変える。
勝てるポジションを見つける。
能力そのものではなく、適合や希少性で価値を作る戦い方。
それが合理的で、生き延びやすい選択肢であることも理解している。
実際、多くの人にとっては正しい。
私もその存在を否定したいわけではない。
それでもなお、私は今のところ、この縦の戦いから降りるつもりはない。
理由は単純で、自分がどこまで通用する人間なのかを、曖昧なままにしておきたくないからだ。
居場所を作る前に、まず能力で測られたい。
勝てるかどうかではなく、どこで負けるのかを知りたい。
これは信念というより、性質に近い。
納得するために、あえて消耗する道を選んでいるだけだ。
以下では、縦の戦いと横の戦いを整理した上で、
それでも私が縦に立ち続けたい理由を、順に言語化していく。
2. 縦の戦いと横の戦いの整理
ここで一度、「縦の戦い」と「横の戦い」を言葉として整理しておきたい。
縦の戦いとは、同じ物差し・同じルール・同じ土俵の中で、能力の上下を競う戦いだ。
学歴、年収、肩書き、企業の格、技術レベル、成果。
評価軸がある程度共有されており、序列が可視化されやすい。
勝てば分かりやすく評価され、負ければ言い訳がしづらい。
残酷だが、結果がはっきりする。
「どこまで通用したか」「どこで負けたか」が確定する。
一方で横の戦いは、その物差し自体をずらす、あるいは増やす戦いだ。
同じ能力でも、置く場所や役割を変えることで価値を出す。
比較されない場所に行く、もしくは比較不能なポジションを作る。
横の戦いでは、「強いか弱いか」よりも、
「必要とされているか」「代替可能かどうか」が重要になる。
序列よりも、適合や希少性が評価軸になる。
縦の戦いは消耗戦で、横の戦いは賢い選択だ、という見方は妥当だと思う。
合理性だけを考えれば、その通りだ。
ただし、横の戦いには一つ特徴的な性質がある。
自分の能力の上限が、最後まで曖昧なまま残るという点だ。
居場所は作れても、「どこまで行けたのか」は確定しない。
それを安心と感じる人もいれば、耐えがたい不確実さと感じる人もいる。
私は、横の戦いの中でも特に、
「勝てるポジションを見つける」「自分に有利な場所に移動する」という発想に、強い違和感を覚えている。
それは合理的で、賢い戦略だと思う。
多くの人にとっては正解でもある。
ただ、私の価値観とは噛み合わない。
私がやりたいのは、条件を調整した結果として勝つことではなく、
社会人としてのど真ん中に立ち、同じ条件の中でどこまで通用するかを確かめることだ。
土俵を選ぶこと自体を否定したいわけではない。
ただ「ここなら勝てる」という理由で立ち位置を決めると、
自分の中では、戦っている感覚がどうしても薄れてしまう。
横の戦いは、負けにくくする戦いであり、生き残るための戦いだ。
一方で縦の戦いは、勝つか負けるかを引き受ける戦いだ。
不利でも、消耗しても、その場に立ち続けること自体が選択になる。
私は今のところ、
「勝てる場所を探す」よりも、
「この場所でどこまで通用するかを確かめる」ことを選びたい。
それが非合理で、遠回りで、消耗戦だとしても、
少なくとも自分の価値観とは、こちらのほうが一致している。
3. なぜ私は縦の戦いから降りたくないのか
私は、いわゆる「強い経歴」を持っていない。
田舎の農民だった家庭に生まれ、偏差値が高くない公立高校から専門学校に進学した。
大学には行っていない。
大学に行かなかった理由は単純で、好きなこと以外を継続してやる能力が低いことを、自覚していたからだ。
通知表では、好きな教科は最高評価、興味のない教科は最低評価だった。
興味のない授業は苦痛で、テストのための課題をこなす気力もなかった。
そのため、評価基準の曖昧さや人間関係を含めた大学生活を、最後までやり切れる気がしなかった。
就職活動でも、同じようなつまずきがあった。
「エンジニアとして強くなりたい」という方向性はあったが、正直その会社が何をしているか、どういうビジョンであるかなどには心底興味がなく、面接でも取り繕ったような回答しかできなかった。
結果として、就活という競技そのものに向いていないことを痛感し、学校推薦に頼って就職した。
最終的に入った会社では、「自分がやりたいこと」を見つけることができた。
業務外での自己学習の時間を確保できる環境で、金をもらいながらモラトリアムのような時間を過ごしていた。
その後転職し、仕事自体は楽しかった。
ただ、その環境に満足している自分に対して、「ここで満足していていいのか」という違和感が消えなかった。
より厳しい環境で、自分の能力がどこまで通用するのかを確かめたい。
そう考えて、再び転職を選んだ。
振り返ると、この経歴コンプレックスは一貫している。
いわゆるハードスキルの強さだけで評価されたい、という欲求だ。
私は、調整力、愛想の良さ、空気を読む力といった、総合点で評価される生き方が得意ではない。
だからこそ、それらを最小限にしても、ハードスキルだけで戦えるということを、証明したいという欲求がある。
これは万能でありたいという願望ではない。
「この形でも、どこまで行けるのか」という問いに近い。
一方で、そうしたバランスの取れた生き方ができる人たちに、憧れも抱いている。
自分がなれない姿だからこそ、否定しきれない。
縦の戦いに残り続けたい理由は、
その憧れへの対抗であり、同時に自己限定の受容でもある。
4. 消耗すると分かっていて戦うということ
最後は挫折で終わる可能性が高いことも、理解している。
前提として、私は「要領が良い」「地頭が良い」「最短距離で成果を出せる」という意味での優秀さは持っていない。
好きなことに長時間集中できるという特性を使い、物量をかけているだけだ。
それでも、この戦い方で、どこまで通用するのかを知りたい。
苦しさをコストではなく条件として受け入れ、痛みを、自己理解の材料として引き受けている。
5. この戦いはいつまで続けるのか
どこで終わりとするのか。
負けたときに、何が残っていれば納得できるのか。
降りる条件を言語化する試みは、まだ途中だ。
6. 結論:それでも私は、まだ縦に立っている
これは正しさの話ではない。
他人に勧める話でもない。
ただ、自分の意思として、
今はまだ、この場所に立っていたい。
どう生き延びるかよりも、
同じ条件の中で、どこまで通用する人間なのかを、確かめたい。
それだけの話だ。
